『yellow coffin』





peaceの空き箱、黄色い薔薇のドライフラワー、オーガンジーなど



東京藝術大学大学院美術研究科 先端芸術表現専攻修士1年制作発表 ATLAS展
2010



『yellow room』




ポートレート『黄色い部屋』と、『yellow coffin』のインスタレーション

photo:Mitutika Fukuda
http://www.modernfreaks.jp/


Gallery Conceal Shibuya『CunCun』
2011



"yellow coffin"(『黄色い棺桶』)を作るにあたって 2010年のblogより

そういえば、やなぎみわさんが「子供が生まれたり、誰かが死んだり、時間の流れが急激に変化すると、ものすごく時間の流れを感じる。」みたいな事をおっしゃってた。
「不在」について、常に考える1年だった私にとって、すごく印象深い言葉だった。

きっかけは、やっぱり、昨年の2月におじいちゃんが亡くなったことにある。おじいちゃんは1月4日に入院して、2月4日に死んじゃった。本当に突然の出来事だったよ。

やなぎさんのおっしゃった「時間の流れを感じる」ことって、人の存在/不在によって起こる環境の変化を、じわじわと五感で感じるようになるからなんだろうなぁ。
だけど、人が死んだり、生まれたりする事は、本当に似ていて、人はその事実に直面すると、その時ばかりは、時間の流れなんてまったく無くなってしまって、現実しか感じられなくなる。

大岡信さんの言葉に『人は時間を忘れない限り、希望という言葉を忘れることは出来ない。時間は最大の「虚妄の実在」なのだ。』とある。
生命の誕生に希望が持てるのは、日に日に成長し変化する赤ん坊によって過去と現在を知ることが出来るからだと思う。その先には幸せがあることをみんな知ってる。はず。
(それを知らない人のもとで、犠牲になった命のことを思うと、私は胸が痛む。憎しみ以外何でもない塊が、ごろごろ生まれるのが分かる。
ああ、話の流れが変わっちゃうからやめておく。2011年をそんな風に始めたくは無いもの。でも、いつかはきちんと考えたいことの一つ。さて・・・で、)
だけど、死が残された者へ何か変化をもたらしても、私たちは目を背けて時間の流れを拒む。そして、時間って、ヒトだけの決め事なんだって、自分に言い聞かせる。

おじいちゃんが死んだ後、時間を感じることは、忘れること以外に何もなかった。だけど、それはおじいちゃんへの裏切りだと思ってた私は、それを許せなかった。
四十九日が終わって、半年が経って…。その間いろんな物事や動きがあったけど、現実感のないまま日付だけが変わっていくのを見ていた。
正直、大学院への進学も、恋人との別れも、どうでもよかった。嬉しいことも、悲しいことも、何も何も何も無かった。
時々襲う苛立ちや憎しみは、自分の作品に対する、特に身体をモチーフにする作品に対する嫌悪感に変わった。自分の事ばかり考えていても、誰も救えない。自分さえも救えない。
せっかく“美大”というところへ進学したのに、制作に目を向けることが全く出来なくなってしまったことには、さすがにヤバイと思ったけど…。

多分、だけど、「不在」って実体以上の存在を持っているようで、その衝撃に勝る衝動を得られなくなっちゃったのが原因だと思う。今思えば。
制作は私にとって希望の1つだったのだけど、時間が止まってしまった状況においては、何の意味もなくなってしまった。

それからはただぼーーっと毎日を送るばかり。部屋の模様替え楽しんだり、恋してみたり。そんな生活は、制作において、元々、何も考えずただ手を動かしていた私にとって、それほど変わらなかった(笑)

私が制作しようともしなくても、誰が生まれようとも死のうとも、世界は変わらなかった。知ったかぶっていたけど、本当だった。

だけど、私の身体はそれに対抗してたのか、幾度も不調を訴えて、病院のベッドで過ごすことが多々あった。
身体モチーフの作品なんて見たくも無かったわけだから、自分の身体のこと考えることだってすごく嫌だったのにね、結局、身体と向きあう機会が必然的に増えてしまった。身動きが取れなくても、身体がそこにあったから。


約半年後のアトラス展で出品した<黄色い棺桶>は、黄色い薔薇のドライフラワーを供花に見立て、祖父が長年愛煙していた煙草Peaceの空き箱を「納棺」したものなのだけど、
それは、私にとって、止まってしまった時の流れを忘却以外の方法で動かすための試みだった。
講評ではめちゃくちゃな言われようだったけど、私は私が正しいと思った事をしたし、そろそろ一周忌を迎える今、確実に、この作品は私にとって必要なものだったと感じることが出来る。
こういう考え、いつまでたっても変わらないなーーって思うけど、今までの作品と違うところは「私にとって本当に必要だったと思えること」だと思う。
(今までの作品あっての、今の作品だと思うけど、今までの作品については、そんなに必要だと思ってなかったし…)


死によってだけじゃなく、実体の無くなってしまったものを「得る」ためには、それを記憶する以外方法は無いと思う。記憶によってそれが現在から離れるとき、
それはそれ以上のものへと大きく大きく拡張してく。そこには明らかに時間の流れが存在するけど、これは忘却では無い。はず。そうよ。
これこそ追悼だと思うし、未来への希望なのだとも思う。それと一緒に、このことは身体という実体の呪縛からの解放のようにも感じたの。

(読み返してただひとつ気になったのが、そういえば幻痛ってどうなのかな。記憶の拡張によって反対に実体から呪縛を受けることもありえるのか…)

だけど人は生き続ける限り、身体とその変化に向き合わなければならない宿命を持ってる。入院中に痛いほど感じた。実際、腹が痛かった。あはは。
そんな身体の変化は、刻まれた記憶と現実、未来を繋ぐ役割を担ってる。時に快楽、または痛みを伴って、時間の流れを私たちに教えてくれる。
私たちは身体があって初めて、記憶を作品として紡ぐことが出来る。それは本当にラッキーなこと。